「ご、紫色の口紅」








鏡の前には沢山の化粧品とアクセサリーが並んでいた。
くすんだ櫛は先程置かれたように茶色っぽい髪が絡み付いて、
拗ねたように横を向いていた。
それを手に取ってみようとして、やめた。
化粧品は最近CMで宣伝しているものから高そうなものまで沢山あった。
この持ち主の女は、相当地味な顔をしていて美しいとはとても言えない。
だが彼女は、化粧を塗れば塗る程美しく見えるのだ。そして妖しく微笑んだりして。

つくづく女は恐ろしい生き物だと思う。
黒い縁の鏡は綺麗に磨かれていて、向かいの壁を写していた。

それをそっと覗き込んでみる。
化粧を全くしていない女がこちらを見ていた。
しかし、まるで人形のような顔をしていて少女のような純粋な美しさが残る顔だった。
鏡の中の女は嫌そうに眉間にしわを寄せた。


「どうしよう。オレやっちまったよ?」

鏡に写った女に話し掛けてみた。
そして女は、はあ、と溜息を零す。
鏡の前に並んだ化粧品の中の細長くて黒いケースの口紅を手にとった。
蓋をあけもせずにそれを唇にあてる。

「愛してんだぜカメリア」

女はそう呟き、また溜息を零した。
そして振り返る。
そこは鏡が写していた壁。その下の鏡に写らない位置にはベッドがあった。

ピンクの掛け布団の上には化粧で美しい顔になった女が仰向けに転がされていた。

「・・唯鈴!あんたどういうつもり!?」


女は両手足首をガムテープで縛られていて、

水上げされた魚のようにばたばたとベッドの上で暴れた。
唯鈴は片手で口紅を投げてはキャッチし、を繰り返しながら女を見下ろす。


「あー怒らねぇでくれよ!だってこうするしかねぇんだ!そうだろ!?」

唯鈴は慌てて弁解をしたが女に睨まれて、う、と目を細める。

「ふざけないで」

女は強い口調でそう言った。ペンで描いた形の良い眉毛が怒っている。
唯鈴は溜息を零しながらベッドに近付いた。

「ふざけてねぇよ。・・あーもーそんな可愛い顔すんなよカメリア・・」

唯鈴は背中まで伸ばされた黒い髪をかきあげ、ベッドにどさりと腰を下ろした。
女の事をカメリアと呼ぶのは唯鈴だけだ。

決してそんな名前じゃないし一字も被ってはいないが
カメリアはそう呼ぶ事を諦めのように許していた。

「あんたこそ可愛い顔して、なにしてるか自分で解ってるの!?」

カメリアは声を荒げた。
スカートがめくれてもお構い無しに暴れもした。
しかし唯鈴は呆れたようにカメリアを見下ろす。

「解ってる・・だから落ち込んでんだ・・」

唯鈴は口紅の蓋を開けては色を良く見もせずに自らの唇に塗った。
そしてベッドで暴れるカメリアの唇のルージュを指先で拭った。


「なあ、カメリア・・冗談じゃねぇんだ」


唯鈴は悲しげな、今にも泣きそうな瞳をカメリアに真っ直ぐに向けた。
カメリアはその人形のように整った顔を見て目を見開いた。

「だから・・オレと一緒に死んでくれよ」


カメリアに顔を近付け、必死な表情で懇願した。
そしてカメリアが何かを言う前に、唯鈴はカメリアのルージュが落ちた唇に口づけた。


「馬鹿じゃないの・・これじゃ無理心中よ」


ほんの数秒しか唇はくっついていなかったが、

カメリアの唇には唯鈴が塗った口紅がついてしまった。
泣きそうな声を出すカメリアの顔に唯鈴は苦笑した。


「なんだよこの口紅。すげえ色」


カメリアの唇は紫色に染まっていた。
自分の唇もそうなのだろうと思うと恐ろしい。
唯鈴、とカメリアが呼ぼうと紫色の唇を開こうとした瞬間、

突然床に落ちたカメリアの鞄の中から最近流行りの曲がなりだした。
唯鈴は鞄を拾いあげ、中から赤い携帯電話を取り出す。


「ちょっと、出る気じゃないでしょうね!?」


カメリアの言葉を無視して携帯電話を開く。

液晶に映し出された番号と名前はやはり予想通りの相手だった。
止めてよ、と叫ぶカメリアの口に片手を押し付け通話ボタンを押し、耳に当てた。


「・・よう。てめーが愛しちゃってるアバズレは預かってんぜ。

・・・・落ち着けよ。適当に可愛がってるからよ。とりあえず貸出期間延長って事で頼むぜ。じゃあな」

唯鈴は一方的に会話を切り、携帯電話を真っ二つに折っては床に投げ捨てた。
口から手を離されたカメリアは身をよじってなんとか上半身を起こす事に成功した。

「唯鈴・・!」


カメリアは完全にキレた声色で唯鈴を呼んだ。噛み付いてやろうかとも考えていた。
唯鈴は、はは、と苦笑を零す。

「悪かったって!アバズレは嘘だよ!」

そんな事を言っている訳じゃなかったのだがカメリアは何も言えなくなってしまった。
恐怖やら嬉しさやら後悔やらでどうしようも無くなって、カメリアは下を向く。

「参ったよなあー・・あのオッサンと趣味一緒なんてよ」

唯鈴は頭をがしがしとかきながら、冗談をいうように言った。
気付けばカメリアの頬には涙が伝っていた。

「私が・・嫌だなんて言ったから?」

カメリアはどうする事も出来ずに鼻を啜った。
困ったように唯鈴は笑い、カメリアの頭を撫でた。

「オレが嫌だったんだよ」


唯鈴はそう言ってカメリアの頭を撫で続けた。
ただただ、カメリアが泣き止むまで撫で続けていたのだった。


昔は何も要らないと思ってた。何かあっても枷になってしまうと。
だから前髪を伸ばして帽子を被ってた。眼鏡をかけてた時もあった。
でもある日、赤い口紅で笑ってくれた。


「あんたがどんな顔でも、私は気にしないわよ。」


言葉通り、彼女は気にもしてくれなかった。
蔑んだりも、羨んだりも、何も言わなかった。

「あんたがどんな中身でも、私は気にしないわ。」

カメリアは笑った。
それで良かった。



でも。
それは雨が降る日だった。
酷く激しく降るから、その音で気が狂いそうになっていた。

「唯鈴・・っ」

突然ドアが開いて、びしょ濡れのカメリアが化粧の落ちた顔で泣いていた。
どうしたんだよ、と言った。
助けて、と言われた。


「・・カメリア?」


カメリアは泣き崩れた。
泣き崩れて肩を震わせて、もう嫌、と言った。

「唯鈴・・助けて・・」

どうせ解ってるんだろうと思った。どうしようも無い事だって。
カメリアは言うなればただの派手な売春婦で、自分はどこにでもいるただの裏市民。
だけど違ったのはカメリアは本当は地味な顔をしているし、
自分は綺麗に産まれてきてしまった。

「ごめん、な・・カメリア・・オレ・・慰めてやれねえよ」

どうする事も出来なかった。それをお互いが知っていた。
笑い合えない、繋がれない、壊れてて狂って傷付け合う事しか出来ない。
そんな事、自分でも解っていた。
なのにどうして。


「・・良いの、ごめんね・・・・忘れて」


カメリアは笑った。
それで良かったはずだった。
だけど。


「違う・・違うんだカメリア」


壊れると解っていた。
だけど近くにハサミがあったから、思わず前髪をばっさりと切ってしまった。

「愛してんだ」

泣きそうだった。
それでもカメリアは、笑ってくれた。
やっぱり綺麗な顔じゃない、と地味な顔で笑ってくれたのだった。



そんなカメリアが泣くのなら、オレはカメリアを抱ける奴を殺してやろうかとも思った。
でも、止めた。
オレが何より殺したかったのは、カメリアを抱いてやれない自分だ。
真っ黒なんだ。なにもかも。



暗い部屋で、カメリアはまだ泣き続けていた。
頭を撫でながら、唯鈴はカメリアの首筋についた紫の口紅を見ていた。

「次会った時はさ、子供作ろうぜ」

冗談を言うとカメリアは身をよじって唯鈴の胸に顔を埋めた。
良いよ、と頷かれ思わず手が止まる。

「次って何百年後かな・・」

カメリアは泣きすぎて涸れた声で呟いた。
そんなに待てねぇな、と笑った。


「ねえ唯鈴」


カメリアは唯鈴のシャツを涙で濡らしつつ、縛られた両腕を唯鈴の首の後ろに回した。
ん?、と唯鈴は小首を傾げる。


「私唯鈴が好きよ」


カメリアは唯鈴を見上げて、涙で化粧の落ちた顔で笑った。
唯鈴は目を見開く。


「・・っは・・?何言ってんだよ・・?」


そんな馬鹿なことがあるわけないのだ。
唯鈴が一方的に好きなだけなのだ。そうでなきゃ困る。
そうでなきゃ・・。
だけれどカメリアは微笑んだ。


「嘘じゃないよ。本当に好きなの」


カメリアは照れたように目だけ下を向いて言った。
唯鈴は固まっていたがやがてカメリアの両頬に触れる。


「・・マジで言ってんのか?オレを?」


唯鈴の言葉にカメリアは笑った。
マジじゃなきゃ言わないわよ、と。
唯鈴は目を見開き、カメリアの目を覗き込んだ。
カメリアの瞳には自分が写っていた。


「オレ・・カメリアより可愛いんだぜ・・?
こんなことしちゃってるし、慰めてやれねえし、・・だからつまり・・女なんだぜ?」


唯鈴は泣きそうな声を出した。カメリアは、そんな事知ってるわ、と頷いた。
それでも好きよ、と笑った。
その瞬間、玄関の方からガンガンとドアを激しく叩く音がした。
唯鈴はカメリアの頬から手を離し、
カメリアがしているように首の後ろに両腕を回して抱きしめた。


「早く言えよ馬鹿」


拗ねたように呟くとカメリアはおかしそうに笑った。
数人の荒々しい足音と叫びが聞こえた。

唯鈴もカメリアもお互いの肩に顔を埋めてあげなかった。


「唯鈴!トチ狂ってんじゃねぇぞ!」

「てめぇを消せと命令が下った!大人しく出てこい!」

男達の叫び声も、ドアが蹴破られる音も二人には遠く聞こえた。
やがて唯鈴は、動かなくなったカメリアの腕からそっと逃れて起き上がり、頬に伝う涙を拭った。
ベッドに横たわるカメリアの、化粧のとれた地味な顔を見下ろしては小さく微笑んだ。

「ああ・・愛してんぜ、カメリア」


ベッドに転がった口紅を拾いあげ、カメリアの唇に紫の線を引いた。
そしてポケットからナイフを取り出した。


「次は男に産まれてきてやるからな」


部屋に男達がなだれ込んできた瞬間、唯鈴はベッドに倒れ込んだ。


時は過ぎて鶏が絶滅した時代。
政治家は「我々はどうやって朝を迎えれば良いのか」を主張しあっていた。
高校生がギャンブルから足を洗って人殺し集団を建設したり、
猫の王子様は一度は人間に戻ったもののまた猫に戻りたいんだぜとか言い出す。

そんな世界のとあるアパート。ガラス窓に紫色のキスマークがついた部屋。
そこに転がる、一輪の椿。